封建制 — 荘園制・農奴制と資本主義以前の生産様式
資本主義以前の生産様式としての封建制を概観。荘園制・農奴制という経済的基盤、賦役から貨幣地代への転換、超経済的強制による余剰収取、ドッブ=スウィージー論争・ブレナー論争にみる移行論、日本の封建制との比較、そして「封建制」概念への史学的批判(ブラウン、レノルズ)までを扱う。
article finance ja 資本主義以前の生産様式としての封建制を概観。荘園制・農奴制という経済的基盤、賦役から貨幣地代への転換、超経済的強制による余剰収取、ドッブ=スウィージー論争・ブレナー論争にみる移行論、日本の封建制との比較、そして「封建制」概念への史学的批判(ブラウン、レノルズ)までを扱う。封建制 — 荘園制・農奴制と資本主義以前の生産様式
封建制(feudalism)は、ヨーロッパ中世を中心に語られてきた政治・社会・経済の秩序であり、経済史では「資本主義以前の生産様式」、また重商主義に先行する経済秩序として位置づけられる。その経済的実体は荘園制(manorialism)と農奴制(serfdom)にあり、領主が農民から余剰を市場ではなく直接的な強制によって収取する点に特徴がある。ただし「封建制」という語自体が後世の構築物であり、その妥当性は史学的に激しく争われてきた。本稿は封建制を経済システムとして捉えつつ、概念史上の留保を併記する。
封建制とは — 資本主義以前の経済システムとしての位置づけ
本稿の系列では、封建制は重商主義(mercantilism、約16〜18世紀)の前段にあたる中世的経済秩序であり、その解体の上に近世の重商主義的・初期近代的秩序が立ち上がる。経済システムとしての核心は二層からなる。第一は経済的基盤としての荘園制と農奴制であり、第二は、領主が市場の匿名的な力ではなく裁判権・慣習法・物理的強制という「超経済的強制」によって余剰を収取する点で、賃金関係を通じ搾取が市場の背後で進む資本主義との決定的な相違とされる(両層の詳細は後述)。もっとも「封建制」は経済的基盤の概念であると同時に史学上の構築物としての性格も帯びており、本稿はこの二面性を念頭に置く。
「封建制」という概念の問題 — 後世の構築物としての feudalism
「封建制」という語は中世人の自称ではなく、後世が遡及的に組み立てた概念である。古典的モデルは、主君と臣下を結ぶ忠誠の人的紐帯(vassalage)、軍役と引き換えに与えられる封土(fief、ラテン語 feudum)、領主が裁判・徴税・軍事を担う公権力の分散、という三要素からなるとされたが、この体系は19〜20世紀初頭の歴史家がローマ法概念と中世文書から再構成したものである。Montesquieu(1689–1755)は『法の精神』(1748年)で「封建法」を詳論し、Adam Smith(1723–1790)は『国富論』(1776年)で「封建制(feudal system)」を商業社会と対比される秩序として用いた。語源も、feudum はゲルマン語の fehu(家畜・財産)に由来するとの説があるが派生は争われており断定を避ける。学説上、F. L. Ganshof(1895–1980)は『封建制とは何か』(1944年)で、封建制を主君と臣下の封土保有関係を規律する法制度に限定する狭義の定義を示した。これに対し Marc Bloch(1886–1944)は『封建社会』(1939–40年)で、農奴制・村落構造・戦士階級の心性・公権力の分散をも含む広義の「封建社会」を描いた。さらに Elizabeth A. R. Brown は「ある構築物の専制」(American Historical Review 誌、1974年)で「封建制」を中世の実態に対応しない近代の構築物として放棄すべきだと論じ、Susan Reynolds は『封土と臣下』(1994年)で、「封建的」諸制度の多くが後代の法律家や近代の学者の投影だと史料に即して批判した。この批判は中世史教育に広く浸透し、「封建制」を普遍的な段階理論として扱う立場はほぼ退けられた。ただし語は便宜的な略号としてなお用いられ、論争は決着していない。
荘園制と農奴制 — 封建経済の基盤
封建制の経済的実体をなすのが荘園制(manorialism、領主制)である。両者は分析上区別され、封建制が領主層内部(騎士・臣下と上級領主)の関係を扱うのに対し、荘園制は領主と農民の関係、すなわち耕作者からの余剰収取の仕組みを指す。両者はしばしば併存したが分離可能で、荘園制は発達した封建的階層に先行し多くの地域でそれより長く存続したとされる(正確な関係は争われる)。「古典的」荘園はイングランドと北フランスで最もよく文書化され、おおむね10〜13世紀のものとして語られるが地域差は大きい。荘園は、領主のために直接耕作される直営地(demesne)と、農民保有地(イングランドの virgate、フランスの manse など、開放耕地の地条と入会権を含む)からなり、輪作や共同放牧は村落共同体が規制し、荘園裁判所が地方の裁判と記録を担った。農奴制(serfdom)は、移動の制限(領主の許可なく荘園を離れられない)、領主裁判への従属、賦課(結婚税 merchet、死亡税 heriot、裁量的な人頭税 tallage など)、身分の世襲を伴った。ただし「農奴制」自体が多様な条件をまとめた合成的呼称であり、イングランドの villein 保有、フランスの servage、ドイツの Hörigkeit はそれぞれ異なる。法的細目は各法域に固有で、一般化は避けるべきだ。
余剰の収取形態 — 賦役・現物地代・貨幣地代
荘園経済における余剰収取は、地代の三形態として整理される。これはマルクス主義の経済史で最も体系化された分析図式だが、同時に多くの地域で記録された傾向でもある。第一は労働地代すなわち賦役(corvée)で、農民が週に一定日数(イングランドでは典型的に週2〜3日、収穫期には追加労働)領主の直営地で労働した。市場の誘因だけでは無償労働を引き出せず、超経済的強制を要した。第二は現物地代で、農民が収穫の一部や定量の生産物を納め、市場交換が未発達な地域で一般的だった。第三は貨幣地代で、固定額の現金支払いを意味し地域経済の貨幣化を前提とし、西ヨーロッパでは商業の拡大とともに12〜13世紀以降に増えた。労働地代から現物地代を経て貨幣地代へ向かう軌跡は、しばしば賦役の「金納化(commutation)」と呼ばれる。とりわけイングランドで記録された傾向だが、正確な時期や駆動要因は争われており断定を避ける。いずれの形態でも収取は領主の権力に裏打ちされ、地代の形態そのものが封建経済の社会構造を規定したと考えられる。
中世農業の技術変化 — 三圃式農業と重量有輪犁
ヨーロッパ西部では盛期中世(おおむね10〜13世紀)に耕地と人口の拡大を伴う一連の技術変化がみられた。これらを「中世農業革命」として一括する枠組みは、Lynn White Jr.(1907–1987)の『中世の技術と社会変動』(1962年)が影響力をもって展開したが、その単因論的・技術決定論的テーゼは今日広く批判されており、因果的主張はそのまま採るべきでない。主要な技術は、重い土壌を反転させうる重量有輪犁(carruca)、馬を牽引動物とした首輪式馬具、耕地を冬穀・春穀・休閑に分けて二圃制より作付けを増やす三圃式農業、そして水車・風車である。三圃制は北フランスやイングランドで8〜9世紀以降に記録され、水車は『ドゥームズデイ・ブック』(1086年)に多数現れ、風車は12世紀末ごろから北ヨーロッパに現れるが、普及年代・因果には異論があり断定を避ける。総じて、単一の「農業革命」という像は遡及的な単純化であり、技術・農業拡大・社会組織の関係は複雑で地域差が大きいとする批判が定着している。
マルクス主義的「封建的生産様式」 — 超経済的強制による収取
マルクスの図式(『経済学批判』序言、1859年などで示された)では生産様式が継起するとされ、おおむね古代(奴隷制)→封建制→資本主義→社会主義という系列が語られる(マルクス自身がこの目的論的順序に一貫していたわけではない)。マルクス主義の歴史家が精緻化した「封建的生産様式」の特徴は次の二点である。第一に、領主は農奴から超経済的強制によって余剰を収取する。これは政治的権力と経済的権力が領主に融合した直接的な人的強制であり、市場を介して搾取が「当事者の背後で」進む資本主義と対照をなす。第二に、農奴は土地を保有するが、人格的不自由と義務的な余剰収取の条件下にある。何ももたない奴隷と異なり、農奴が自分の保有地という「独自の経済」を保つ点が、奴隷制的生産様式との区別の核心とされる。この見方を最も影響力ある形で英語圏に提示したのが Maurice Dobb(1900–1976)の『資本主義発展の研究』(1946年)で、強制労働の非効率や領主による収奪強化が危機を生む内的矛盾を移行の駆動因として強調した。なお、この歴史唯物論的な意味での「封建制」は Ganshof の狭義の法制度的意味とは指す対象が異なり、区別を要する。
封建制から資本主義への移行 — ドッブ=スウィージー論争とブレナー論争
封建制から資本主義への移行は、経済史上の大論争を生んできた。第一の焦点がドッブ=スウィージー論争(Science and Society 誌、1950–53年)である。Dobb は移行の主因を内的なものとみた。農奴労働の搾取の非効率と矛盾であり、領主の過剰な要求と農民の抵抗で体制が機能不全に陥ったとし、都市と商業の成長は副次的帰結にすぎないとする。これに対し Paul Sweezy は、外需に駆動された遠隔地交易が市場を拡大し農奴制の人的紐帯を侵食したとして、外的な商業力こそ封建制を溶解させたと論じた(Henri Pirenne の交易復興論を踏まえた立場)。論争の核心は、移行が内的階級動態によるのか外的商業力によるのかという問いにあった。背景には14世紀の危機がある。黒死病はクリミアを経て1347〜51年に地中海から北ヨーロッパへ広がった。死亡率はヨーロッパ人口の約3分の1という伝統的数値が広く引かれてきたが、近年の人口史家はより幅のある推計や地域差を強調しており確定的でない。労働供給の急減は生存農民の交渉力を強め、賃金固定の試み(イングランドの労働者規制法、1351年)の失敗を経て、西ヨーロッパでは賦役の金納化と農奴制の衰退が進んだ。他方、ポーランド・プロイセン・ボヘミア・ロシアなど東ヨーロッパでは、同時期に領主が農民支配を再強化する「二次農奴制」が生じた。この東西分岐を中心に据えたのが Robert Brenner(1943– )の「前産業期ヨーロッパにおける農業階級構造と経済発展」(Past & Present 誌70号、1976年)である。Brenner は、移行の差異を説明する鍵を農業階級構造、すなわち領主と農民の力関係に求め、同様の人口的衝撃が地域により異なる帰結を生んだのは階級構造が媒介したからだと論じた。これに対し Postan ら人口史家、地域専門家、Wallerstein ら世界システム論者から反論が相次ぎ(『ブレナー論争』として収録)、この移行問題は今なお決着していない。
日本の封建制と比較史
日本史でも「封建制」概念は早くから援用されてきた。経済的基盤としては荘園(荘園経済)の体系があり、奈良期以降に成立し平安期(794–1185年)に精緻化した私的所領で、名主・地頭・領主・中央貴族や宗教勢力が重なり合う権利構造をもった。鎌倉幕府期(1185–1333年)は、将軍と御家人を結ぶ人的紐帯と軍役を介した土地給付ゆえに、ヨーロッパ型封建制に最も近いとしてしばしば比較される(御家人制)。江戸期(1603–1868年)の幕藩体制もまた「封建的」と形容され、大名が藩を準自律的単位として保持し、士農工商の身分秩序の下で農民が土地に縛られ年貢を米で納める現物地代的な構造をとった。ただし江戸期の経済は17〜18世紀までに相当に貨幣化・商業化し、商人資本と都市市場、問屋制家内工業を擁したため、「封建的」という形容は政治的形態には当てはまっても経済的実体には必ずしも当てはまらない。語の面では、「封建」は周代の封建制を指す古典中国語であり、明治期に「feudal」の訳語として採用されたとされるが標準化の正確な年代は要確認である。日本のマルクス主義史学では、講座派と労農派の論争(1927–37年ごろ)が中心となる。講座派は明治維新を不完全なブルジョア革命とみて当時の日本をなお半封建的段階に置き(『日本資本主義発達史講座』1932–33年がその名の由来)、労農派は維新をブルジョア革命と捉えて資本主義段階と論じた。Marc Bloch も『封建社会』で欧日比較に言及し、両者の並行性を伝播ではなく共通の社会学的条件の証左として論じたとされる。現在の専門家は、欧日比較を広い社会学的パターンの水準では有用としつつ法制度に厳密に適用すれば誤導的とみており、厳密な法的等価性は争われる。
現代史学における位置づけ
現代の史学において「封建制」は、普遍的な段階理論ではなく便宜的な発見的略号として生き残っている。Brown と Reynolds の批判以降、「封建制」を中世社会の整然たる体系として描く立場は退けられ、地域的多様性と漸進的変化が強調されるようになった。とはいえ、荘園制・農奴制という経済的基盤、賦役から貨幣地代への収取形態の変化、超経済的強制による余剰収取といった分析的論点は、経済史の道具立てとして今なお有効である。移行をめぐるドッブ=スウィージー論争やブレナー論争も、内的階級動態か外的商業力か、人口か階級構造かという問いを残したまま開かれている。これらに共通するのは、封建制をひとつの生産様式として捉える視座が、その解体の局面で資本主義の起源を問う鍵になる点である。封建制の溶解は、商業の拡大と国家の集権化を伴いながら、富の源泉を貴金属と貿易差額に見た重商主義の段階へと舞台を引き継いでいく。封建制は、終わった制度としてではなく、資本主義以前の経済を理解するための未完の論争の場として経済史に位置づけられる。
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