社会主義と共産主義 — 生産手段の社会的所有をめぐる思想・体制・経済計算
社会主義(生産手段の集団的所有)と共産主義(無階級・無国家の高次段階)の区別を軸に、ユートピア社会主義からマルクス科学的社会主義・レーニン主義・社会主義計算論争・社会民主主義・現実社会主義の崩壊まで、経済システムと思想運動として概観する。
article finance ja 社会主義(生産手段の集団的所有)と共産主義(無階級・無国家の高次段階)の区別を軸に、ユートピア社会主義からマルクス科学的社会主義・レーニン主義・社会主義計算論争・社会民主主義・現実社会主義の崩壊まで、経済システムと思想運動として概観する。社会主義と共産主義 — 生産手段の社会的所有をめぐる思想・体制・経済計算
社会主義は、生産手段の社会的・集団的所有を通じて経済を私的利潤ではなく共同の利益のために組織しようとする思想・体制の総称である。共産主義はマルクスにおいてはその先の無階級・無国家・無貨幣の高次段階を、20 世紀においてはマルクス=レーニン主義の党=国家運動を指す。本稿は、ユートピア社会主義からマルクスの科学的社会主義、レーニン主義の計画経済、社会主義計算論争、社会民主主義、現実社会主義の興亡と未決の論争までを概観する。価値・剰余価値など経済理論の細部は fin-4(マルクス経済学)に、資本主義一般は fin-7 に、北欧型福祉国家の位置づけは fin-11 に委ねる。
社会主義と共産主義とは — 定義と両者の関係
社会主義(socialism)は、生産手段の社会的・集団的所有を主張する思想と体制の総称であり、国有化と中央計画から市場社会主義、民主社会主義まで広いスペクトルを含む。共産主義(communism)には二つの用法がある。第一はマルクスの理論的用法で、社会主義のさらに先の高次段階、すなわち強制的な国家が「死滅」し、階級も貨幣もなく、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」分配が行われる社会を指す。第二は歴史的・運動的用法で、20 世紀のマルクス=レーニン主義の党=国家運動とそれが生んだ諸体制(ソ連・中国・東欧・キューバなど)を指す。後者は自国を「社会主義」と称し、共産主義の達成を主張したことはなかった。マルクスは『ゴータ綱領批判』(1875 年執筆、エンゲルスにより 1891 年公刊)で二つの局面を区別した。低次局面=社会主義は資本主義から生まれたばかりで「各人はその労働に応じて」分配し、能力差を無視する「ブルジョア的権利」をなお残す。高次局面=共産主義は生産力が全面的に発展し、分業が克服されて上記の必要原則が実現する。用法が争われるのは、20 世紀の諸党が社会主義段階を自認しつつ党名を「共産党」とし、社会民主主義者が社会主義を名乗りつつレーニン主義を拒み、冷戦期の西側がソ連型体制を「共産主義」と一括したためである。
ユートピア社会主義から科学的社会主義へ
近代社会主義の前史には、私有財産の廃止と経済的平等を求める運動がある。フランスのグラックス・バブーフ(1760–1797)は「平等派の陰謀」(1796 年)を率い、私有財産の廃止を企てて翌年に処刑された。マルクス以前の社会主義の中心をなすのが、エンゲルスが『空想から科学へ』(1880 年、『反デューリング論』の一部を拡張)で挙げた三人の先駆者である。アンリ・ド・サン=シモン(1760–1825)は産業者と科学者による計画的産業社会の統治を構想し、技術官僚的計画思想に影響を与えた。シャルル・フーリエ(1772–1837)は、市場資本主義に代わる自発的協同体ファランステール(phalanstère)を提唱し、「魅力ある労働」を説いた。ロバート・オーウェン(1771–1858)は、スコットランドのニュー・ラナークで人道的経営が利益と両立することを示した工場主で、米インディアナ州のニュー・ハーモニー(1825–1827 年)の共同体実験は財政的に失敗したものの、協同組合運動と初期労働組合の母胎となった。エンゲルスが彼らを「空想的(utopian)」と呼んだのは、道徳的構想を貶めるためではなく、彼らが資本主義の歴史的法則を分析せず、理性と道徳に訴えて資本家や政府にモデル共同体の採用を説得しようとし、矛盾が自らを乗り越える条件を生む理論を欠いていたためである。ほかにルイ・ブラン(国家による「社会的作業場」を主張)、エティエンヌ・カベ(共同体小説『イカリア旅行記』、1840 年)らがいた。
マルクスの科学的社会主義 — 史的唯物論と政治綱領
マルクス(1818–1883)とエンゲルス(1820–1895)の科学的社会主義は、史的唯物論を土台とする。『経済学批判』序文(1859 年)に示されたこの見方では、生産力と生産関係からなる経済的「土台(下部構造)」が、法・政治・宗教・文化という「上部構造」を規定する。生産力が発展して既存の生産関係(所有形態)と矛盾に至ることが歴史変動の原動力とされる。生産様式は、原始共産制→古代奴隷制→封建制(fin-10)→資本主義(fin-7)→社会主義→共産主義と継起すると整理されるが、マルクス自身は「アジア的生産様式」を認めるなど一直線の図式に固執せず、硬直した六段階論はむしろソ連マルクス主義(弁証法的唯物論、ディアマト)の産物である。『共産党宣言』(1848 年)は「今日まで存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と説き、資本主義のもとでは生産手段を所有するブルジョアジーと、労働力しか持たないプロレタリアートが対立すると論じた。プロレタリアートが国家権力を奪取してブルジョアジーを抑え、所有関係を変革する移行的政治形態が「プロレタリアート独裁」である。これは必ずしもレーニン的な一党独裁を意味せず、マルクスとエンゲルスは選挙で選ばれ召還可能な代表が立法と行政を融合させたパリ・コミューン(1871 年)を近似形として挙げた。労働価値説・剰余価値・転形問題など経済理論の機構は fin-4(マルクス経済学)が扱う。
レーニン主義と国家社会主義モデル
ウラジーミル・レーニン(1870–1924)はマルクス主義を後発資本主義国の革命戦略へ展開した。『何をなすべきか』(1902 年)は、労働者は自然には労働組合的意識しか持ちえないとし、職業的革命家による規律ある前衛党を説いた。『帝国主義論』(1916 年)は独占段階の資本主義が資本輸出で世界を分割し、超過利潤で「労働貴族」を懐柔して本国の革命を遅らせると論じた。『国家と革命』(1917 年)はブルジョア国家を打ち砕くべきものとし、プロレタリアート独裁を移行形態としつつ最終的な国家の死滅を説いた。1917 年、二月革命で帝政が倒れ臨時政府が成立、十月革命でボリシェヴィキが権力を握った。内戦期の戦時共産主義(穀物徴発・産業国有化)ののち、新経済政策(ネップ、1921–)で小規模な市場と農民取引を一時的に容認した。スターリンの権力集中後に計画経済が整備される。ゴスプラン(国家計画委員会)が、価格ではなく数百の物資の物量バランスで需給を均衡させ、五カ年計画(第一次 1928–32 年)で急速な工業化と農業集団化を進めた。集団化(1929 年以降)は強制的で、ウクライナの飢饉を含む多数の餓死者を生んだ。スターリンは世界革命に先立つ建設を説く「一国社会主義」を掲げた。主要な分派として、トロツキー(1879–1940)の永続革命論(ソ連を「堕落した労働者国家」と批判、『裏切られた革命』1937 年)、毛沢東(1893–1976)の毛沢東主義(農民を革命主体とし、大躍進・文化大革命を引き起こした)、西欧のユーロコミュニズム、チトーのユーゴスラビアの労働者自主管理がある。なお 20 世紀社会主義体制の犠牲者数(集団化の飢饉や大躍進の餓死者は数千万規模とも)はいずれも推計であり、諸説に留意を要する。
社会主義計算論争
社会主義の経済的評価の核心が社会主義計算論争である。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881–1973)は「社会主義共同体における経済計算」(1920 年)で、合理的な経済計算は貨幣表示の価格を必要とし、価格は私的所有が交換される市場でのみ成立すると論じた。社会主義では生産手段が社会的に所有され交換されない以上、生産手段に価格が立たず、どの生産過程が割に合うかを計算できない——これは実務上の困難ではなく論理的な不可能性の主張であった。フリードリヒ・ハイエク(1899–1992)はこれを「知識問題」として再構成した。「社会における知識の利用」(1945 年)によれば、経済に必要な知識は無数の個人に分散し、その多くは時と場所に固有の暗黙知であって、いかなる中央計画者も集約できない。市場価格はこの分散した知識を伝達する「情報伝達装置」として働く。ゆえに計算問題は計算能力ではなく、分散し暗黙的な知識を中央化することの認識論的不可能性の問題である。ハイエクは『隷従への道』(1944 年)でこれを政治理論へ拡張し、中央計画は強制を要し全体主義へ傾くと論じた。これに対しオスカル・ランゲ(1904–1965)とアバ・ラーナー(1903–1982)は市場社会主義で応えた。ランゲの『社会主義の経済理論』(1936–37 年)は、中央計画局が生産財価格を試行錯誤で調整し(超過需要なら上げ、超過供給なら下げ)ワルラス的均衡を模倣する仕組みを提案した。工場管理者は限界費用を局の設定価格に等しくするよう行動し、ランゲはこれが独占的資本主義より効率的でありうると主張した。ハイエクは、この試行錯誤は嗜好・技術・資源の絶え間ない変化には遅すぎ、市場価格の速度と情報量、暗黙知を再現できないと再反論した。1989 年のソ連圏崩壊を計算論争の「実証」と読む論者は多いが、ソ連が甚大な人的犠牲を伴いつつ急速に工業化した事実や、ミーゼスの「論理的不可能性」の当否は学界で決着しておらず、コックショット=コトレル『新しい社会主義へ向けて』(1993 年)など計算社会主義の議論も続く。
改革主義と民主的潮流 — 修正主義・社会民主主義・北欧モデル
社会主義には革命によらない改革主義の潮流がある。エドゥアルト・ベルンシュタイン(1850–1932)は『社会主義の前提と社会民主党の任務』(1899 年)で、資本主義は株式会社・信用・カルテルによって適応・安定し、プロレタリアートの窮乏化も進んでいないとして、漸進的な議会改革による社会主義を説いた(修正主義)。これに正統マルクス主義を擁護するカール・カウツキーと、ローザ・ルクセンブルク(『社会改良か革命か』1900 年、修正主義を日和見主義と批判)が反対した。イギリスではフェビアン協会(1884 年設立、ウェッブ夫妻やバーナード・ショー)が、既存制度への浸透による漸進的・立憲的な社会主義を唱え、労働党創設に寄与した。制度的には、第二インターナショナル(1889 年設立)が 1914 年に各国政党の戦争協賛で崩壊し、レーニンが第三インターナショナル(コミンテルン、1919 年)を「21 カ条」の加入条件とともに創設したことが、社会民主主義(改良・議会主義)と共産主義(革命・前衛党)の分水嶺となった。ここで民主社会主義(議会を通じてなお所有構造の変革を目指す)と社会民主主義(資本主義を受け入れ、福祉国家と再分配で管理する)を区別できる。SPD はバート・ゴーデスベルク綱領(1959 年)でマルクス主義と生産手段の社会化を放棄し、市場経済を受け入れた。なお北欧モデルはしばしば「社会主義」と誤解されるが、生産手段は私有され(ボルボ、イケアなどは私企業)、中央計画もない規制された資本主義・福祉国家である。エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』(1990 年)はこれを資本主義内の「社会民主主義レジーム」と位置づけた。スウェーデン社会民主党のメイドナー案(賃金稼得者基金、1970 年代)は企業所有を集団的基金へ漸進的に移す点で本来の社会主義に近づいたが、全面実施には至らなかった。混合経済も、構造的には社会主義ではない(fin-11 参照)。
現実社会主義の興亡と未決の論争
現実に存在した社会主義(現実社会主義)は 20 世紀後半に興亡した。ソ連はコメコン(経済相互援助会議、1949 年)で東欧の計画経済を統括したが、1950–60 年代の急速な工業化ののち 1970 年代から成長が鈍り、ブレジネフ期の「停滞」に陥った。ゴルバチョフ(書記長 1985–91 年)はグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再建)を試みたが体制の解体を加速し、1989 年の東欧革命(ベルリンの壁崩壊など)を経て 1991 年にソ連は解体した。ハンガリーのヤーノシュ・コルナイ(1928–2021)は『不足の経済学』(1980 年)で、社会主義計画経済が慢性的不足を生む構造を分析した。鍵概念が「ソフトな予算制約」で、国有企業は損失が国家に補填されると知るため節約の誘因を欠き、絶えず超過需要と不足が生じる——市場の「ハードな予算制約」(赤字なら倒産)と対照的である。一方で中国は鄧小平(1904–1997)の改革開放(1978 年〜)のもと「中国の特色ある社会主義」を掲げ、共産党支配を保ちつつ市場経済と私的所有を導入した。ベトナムのドイモイ(1986 年〜)も党支配を維持しながら市場経済化を進めた。市場社会主義の構想には、ランゲ・モデルやユーゴの自主管理に加え、ジョン・ローマーの「クーポン社会主義」(企業株式を市民に均等配分し売買は許すが現金化は禁ずる、1994 年)がある。「ソ連は本当に社会主義だったか」をめぐっては、正統派(社会主義段階の労働者国家)、トロツキー派(堕落した労働者国家)、国家資本主義論(蓄積法則は資本主義的)、官僚的集産主義論などが対立する。権威主義が社会主義に内在するか否か、エコ社会主義や社会主義フェミニズム(家事・ケア労働を労働力の社会的再生産として捉える)の問題提起、2008 年金融危機後の民主社会主義の再興も、なお続く論争である。本稿は確立された政治経済学の文献に基づく総合であり、confidence: medium は情報カットオフ ~2025-08 で固定(人名・著作・年号の一部は 2026-06 時点で独立再検証を未実施。犠牲者数などの数値は推計に幅がある)。
Backlinks
- related 混合経済 — 市場と政府が共存する経済体制とその思想・歴史